夏と旅情とそれに伴う雑感
押しも押されもせぬ夏も夢だったのだろうかと思われるほど、夏の威勢が削がれている気がする。
深夜に長野のPAでしとしとと降る酸性雨を20年後の自分の生え際に想いを馳せながら受けていると、花火大会と縁遠かった10代最後の夏もハゲでは無い分悪くはなかったな、などと言う馬鹿みたいな気持ちが滲み出してくる。
旅情に関する随筆では使い古された感想ではあるだろうが、深夜バスというのは本当に不思議なものであるように思われる。出発点と目的地以外全く共通項を持たない老若男女が、小さな箱に揺られて真夜中を通り抜けていく。
途中のSAやPAで固まった身体をほぐす時に、初めてお互いの顔を認識し、それぞれのバックグラウンドを想像し、しかし答え合わせはすることなく、会釈をしすれ違っていく。
位相の異なる人生を歩んでいるはずの人々が、折角一堂に会しているのだから、ちょっと隣の人に話しかけてみたいなという好奇心も湧いてくるが、そこはお互いに侵さない一線がある、というふうに思って会釈に留めておくのあたりに、なんとなく自分が大人になった気がしてしまう平成最後の夏の暮れなのである。
好きな音楽に関する雑感
流行りの音楽が嫌いだ
流行っているというだけで勇ましいロックも、甘いバラードも、元気なアイドルソングも、軽佻浮薄なものに感じてしまう。耳から神経を通して脳に流入するだけで不快な気分になってくる。
なぜ流行りが嫌いなのかと問われれば、答えはきっと、流行りの曲の音楽性にあるのではなく、自己の内面に求められるのだと思う。
身も蓋もないことを言えば、キラキラしている人が苦手なのだ。
だからそういった人種が聴きそうな時流に乗った音楽も、嫌いなのだ。特にイケメンが「オレ今すげえいいこと言ってるわ〜」とでも言いたげに歌うバラードなんかは歌詞におけるすべての粗をあげまくってやりたいくらいに腹が立つ。すげえ情けない。
タイトルに立ち返り本題に入る。
一体私はどんな音楽が好きなんだろう
イケメンが嫌いならブサイクが歌ってる曲なら好きなのだろうかといえばそんな単純な話ではないはず、、、
なのだが好きなアーティストは基本的にブサイクだ。
私はブサイクだけども、だからこその鬱屈した感情や奔放な恋愛観を持っていて、それが独特な言葉選びや節回しとなって表出されている楽曲を作っているアーティストに惹かれるのだと思う。(多分ブサイク関係ないけど)
ここから、好きな曲を2.3紹介させて頂く。
あいみょんの『愛を伝えたいだとか』は、概して言ってしまえば、ただ彼女に振り回されている男の悲しい自己反省なのだが、それを気怠げなメロディに心情の直接表現と叙景から情景を浮かび上がらせる表現を並立させた歌詞をうまく乗せることができているために、とても詩的な楽曲にできている。基本的にこういった雰囲気の楽曲には弱い。スガシカオなどにも通ずる雰囲気がある。
あいみょん『愛を伝えたいだとか』
amazarasiの『ジュブナイル』は私の中で思春期に聴きたい曲ランキング殿堂入りの楽曲だ。
まずamazarasiはボーカルの秋田ひろむの声がいい。嫌いと言う人も多いが、私はamazarasiのメッセージ性の強い楽曲は、この声でなければ伝えきれないのではないかとすら思う。
受験期には、この曲に、この詞に、この声に、幾度となく崩れ落ちそうな体を抱きとめてもらった。
amazarasi 『ジュブナイル』
https://www.youtube.com/watch?v=IzMZCCddyf0&feature=share
「このアイドルはブスです。だけどそれだけじゃない」
そんな風に知人に紹介したくなってしまうのが【ヤなことそっとミュート】の魅力だと思う。
所謂、「楽曲派」と呼ばれるタイプの地下アイドルで、オルタナロック系統の濁ったギターやガンガンに鳴らす重低音などの、アイドルらしからぬ本格的なライブサウンドで今、注目されている。
そのヤナミューの楽曲の中でら一際素晴らしいと思えたのが『Lily』だ。
この曲は説明するより聴いた方が早いと思う(放棄)
ヤなことそっとミュート『Lily』
(ここで文章は途切れている…)
卒業とそれに伴う雑感
高校を卒業しました。
卒業に必要な単位数を取得できたことや、卒業式に間に合うように起床できたことなどの諸々の奇跡などは今回あまり問題ではなく、むしろ問題なのは卒業に関してあまりになんの感慨もないことなのである。
例えば、中学の時などは、友人たちとは結局地元が同じゆえに会おうと思えばまたいつでも会えるのにも関わらず、今生の別れの如き寂寥を感じたものなのだが、
今回は進学先はおろか地元すら全く違うために、再会の保証など何1つないような人々との別れを、全く惜しめないのだ。
なぜここまで感慨を覚えないのだろうか。
いくつか思い当たる原因を挙げてみると、
最後の方はサボりがちだったこと、アンチが湧いたこと、進学のための受験勉強に本気を出してはいなかったことなどがある。
この中で特に受験勉強に関することが一番大きいのではないかと思う。
中学の時はそれこそ死ぬ気で励んでいた故に、達成感と解放感の反動で、更なる自由を手に入れるはずの進学に伴う別れを惜しむことができたのだと思う。
逆に、大学受験に際して、人並みに頑張ったとは決して言えない学習態度だった為に、なんら達成感も解放感も感じずに、ただ漫然と時間の経過としての卒業を迎えたにすぎないのではないだろうか。
そう考えると私の高校生活、特に高3の1年間は実に無為なものであったのではないかと悲しくなるような気持ちも生じる。
悲しいなぁ(諸行無常)
…
しかし3年間を俯瞰して見てみれば、実に有意義なものだったのではないか、と思う。
高1では自分のルーツと人と真剣に付き合うと言うことを学び、
高2では酷い振られ方への対処法を知り、
バスケへの深い造詣を得、
高3では引退の虚無とアンチの滑稽さを知ることが出来た。
クソじゃねえかよ。いやマジで。
3年間で自分がやってきたことは、本当にバスケ以外はクソなのだが、それでも笑いあったり語り合ったりする仲間を得ることができたことは心の底から喜びや感謝や、その他諸々の正の感情を覚える。
加えて酷い失恋に対する対処法は、処世の術の中でもなかなか大切なものだと思うので、胸に刻み付けておくことにする。
総括すると、に続けて何か気の利いた文句を書いてやろうと思ったが、この3年と言う月日は、私の貧弱な語彙と稚拙な表現力ではとても総括が可能な単調な日々ではなく、むしろ地球の表面積分の紙を広げてやっと書ききれるような、それほどまでに色鮮やかで、色濃い日々であった(と少なくとも私は思う)ので、この文章には明確な総括やまとめの類はつけないこととする。